藍のおはなし。 なぜ徳島県が藍の主要産地になったのか。


前回は藍は中国から伝わったことを書きましたが
今回は画像の徳島県産の藍が今でもなぜ主要産地なのかについて書きたいと思います。
日本に伝わってきた藍は主に京都の洛中で作られていたそうです。
ということは中国同様、皇族・貴族たちの衣服を染めるために
栽培されていたのでしょう。
その頃は今の染めの方法と違っていましたので
栽培した土地でしか染めることが出来ませんでした。
しかもこの頃は主に絹を染めていました。
江戸中期に、木綿の栽培と平行して徳島県産(当時は阿波産)の藍の需要が高まりました。
徳島県の中心を流れる吉野川は日本三大暴れ川のひとつで
何を栽培しても台風時期に流されました。
そこで初代徳島藩主、蜂須賀家は台風前に収穫できる藍に着目しました。
何度も氾濫を繰り返していた吉野川流域は
決壊により上流より肥沃な土砂が流れ込むため最も藍の栽培に適していたのです。
また徳島県は海に面しているため
輸送という観点でも藍の主要産地として適していました。
先に書いたように藍は栽培した土地でしか染められなかったのですが
醗酵建てという新しい染めの技法により
画像のようなカマスに入れ日本各地に輸送することができました。
以後、蜂須賀家の蓼藍づくりの保護奨励策もあり、
やがて徳島県産の藍は質量ともに国内随一となっていきました。
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